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  4. 神学館2階の展示について(2018年度 図書室内展示)

信仰の継承──刷新・試練・宣教(2018年度 図書室内展示)

ルター訳聖書(1585年)

 宗教改革者マルティン・ルター(1483-1546)が訳したドイツ語聖書。新約は1522年、新・旧約の完訳は1534年に刊行された。ドイツ語聖書は印刷術が発明されてから十数種出版されたが、すべてラテン語訳聖書からの重訳であった。これに対して、ルターはギリシア語、ヘブライ語のテキストから訳した点で特筆すべきである。その普及により、近世のドイツ語表記法の統一を進展させたと言われている。
 ルターは、翻訳に際して福音を生きた言葉で伝えようと努めた、と後に語っている。ルターは難解な表現を避け、口語に近い、民衆にわかりやすい表現を求め、死の直前まで訳の改訂に努めた(1545年、ルターによる最後の修正がなされた)。ルター訳聖書は、ルターの死後も改訂や現代語訳を経て、今日までドイツのプロテスタント教会に受け継がれ、用いられている。
 展示の聖書は、1585年に刊行された版である。冒頭のページが欠落しているため、正確なことはわからないが、フランクフルトで出版されたものと推測される。

踏み絵

踏み絵1 表

踏み絵1 裏

踏み絵1 裏詳細

裏 拡大

踏み絵2 表

踏み絵2 裏

 江戸時代、キリシタンでないことを証明するために、キリスト、マリアの絵像を踏むこと。また、そのときに用いられた聖画像を踏絵という。
 踏み絵は、1620年代に長崎で始められ、九州各地に広がった。さらに制度を強化するため、1669年(寛文9年)、長崎奉行所は真鍮の踏絵をつくらせた。踏み絵が制度化されていたのは九州地方だけであったが、他の地域でも、キリシタンの疑いが露見した場合には、同様の方法が取られていたという。1858年、日米修好通商条約締結によって踏み絵は廃止される。
 現存する踏み絵は、東京国立博物館に保存されている。今回展示している踏み絵の複製品の発見の経緯については『京都新聞』2009年4月12日記事を参照。

天道溯原(1875年)

 『天道溯原』はアメリカ人宣教師ウィリアム・A・マーティン(中国名・丁幃良)が中国語で著したキリスト教の書物である。アメリカ長老教会から中国に宣教師として派遣されていたマーティンが、1854年、中国語で執筆し、上海で出版したキリスト教の教義解説書である。中国人の知識人を対象に記されたものであるが、禁教期の日本にも、その一部がもたらされていた(新島襄「私の若き日々」〔『新島襄自伝』所収〕参照)。キリシタン禁制の高札の撤去(1873年)以降は、日本でも広く流布し、当時の知識人に影響を与えた。
 第一章では、惑星と地球の関係における神の秩序について記されている。第二章では、木火土金水の五行について、第三章では生物界における神の秩序について記されている。第四章は人体構造の神秘から創造者の存在を立証しようとしている。
新島襄「私の若き日々」より
 その(注:『ロビンソン・クルーソー物語』、米国の歴史地理の本『聯邦志略』を指す)ほか中国にいたイギリス人宣教師が書いた簡単な世界史の本や、ウィリアムソン博士の小雑誌もあった。そして私の好奇心をもっとも刺激したのは、上海か香港で発行されたキリスト教に関する二、三の書物であった(注:この内の一冊が『天道溯原』と考えられる)。
 私はそれらの書物を夢中になって読んだ。疑う気持ちが起きた反面、畏敬の念に打たれもした。以前に勉強したオランダ語の本を通して、「創造主」という名称は知ってはいたが、漢文で簡潔に書かれた、聖書にもとづく歴史書で神による宇宙の創造という短い物語を読んだ時ほど、創造主が身近なものとして私の心に迫ってきたことはなかった。私は、私たちが住んでいるこの世界が、神の見えざる御手により創造されたのであって、単なる偶然によるものでないことを知った。
 そして同じ歴史書において、神が「天父」とも呼ばれているのを知り、神に対していっそうの畏敬の念を持つようになった。なぜなら、私にとって神は単なる世界の創造主以上の存在として感じられたからである。これらの書物すべてのおかげで、生まれてから二十年間、見えなかったものがいくぶんかすかに、私の目に見えるようになった。
(同志社編『新島襄自伝』岩波文庫、2013年、53-54頁)