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近代日本のキリスト教──禁制の時代から新しい時代へ(2019年度 図書室内展示)

近代日本のキリスト教──禁制の時代から新しい時代へ(展示説明資料)[PDF 179KB]

キリシタン禁制の高札 天和年間(1831-1845年)

キリシタン宗門改証 文久2(1862)年

キリシタン禁制の高札 天和年間(1831-1845年)

キリシタン宗門改証 文久2(1862)年

キリシタン禁制の高札 天和年間(1831-1845年)

「神智霊覚 渓鹿」(原田助 筆)

「神智霊覚 渓鹿」(原田助 筆)

原田 助(はらだ たすく、1863-1940)
 日本組合基督教会牧師、同志社総長。熊本藩の鎌田収の次男として熊本の坪井に生まれ、のち別家して原田姓を名乗った。渓鹿と号する。竹崎茶堂(1812-77)の塾で漢籍を学び、熊本洋学校に学ぶ。同校廃校後広取英語学校に入り、1880年同志社英学校に転入学、82年5 月M.L. ゴードンより受洗、余科(神学科)に進んで、 84年大西祝、村上直次郎、綱島佳吉らと共に卒業。神学科在学中より神戸英和女学校(のち神戸女学院)教師をつとめ、 85年5 月4 日神戸教会で按手礼をうけ牧師となる。88年アメリカに渡りシカゴ神学校、イエール大学に学ぶ。《基督教新聞》、《六合雑誌》の編集、番町、平安、神戸の各教会の牧師、キリスト教青年会運動にも尽くした。1907年同志社社長(1917年以降総長)となり19年まで13年にわたる在職中、校運は進展し、1912年には新島襄の素志であった同志社大学の開校を見るに至った。1910年にはエディンバラにおける世界宣教大会に出席し、エディンバラ大学より博士号(LLD. )の名誉学位を贈られ、またアメリカン・ボード百年記念会に出席してアメリカの各大学で講演、アーモスト大学から博士号(D. D. )の名誉学位をえた。20年招かれてハワイ大学東洋学部長に就任し、 32年まで在職。その間1923年サンフランシスコにおける第1回世界教育会議に日本代表として出席、また太平洋問題調査会の創設に尽力するなど排日運動の激化するなかで日米関係改善に努める。ハワイ大学辞職のさい、博士号(LLD. )の名誉学位が贈られ、同大学最初の名誉教授となった。〔文献〕原田健編『原田助遺集』(1971)。
『キリスト教人名辞典』(日本基督教団出版局)より引用。

筆短冊 一葉(安部磯雄 筆)

筆短冊 一葉(安部磯雄)表

筆短冊 一葉(安部磯雄)裏

安部 磯雄(あべ いそお、1865-1949)
 キリスト教社会主義者。社会運動の先駆者で社会主義の啓蒙家。福岡藩士の次男に生まれた。同志社時代に新島襄より洗礼を受け、アメリカのハートフォード神学校、ベルリン大学にも学んだ。1895年に帰国後同志社教授となり、99年より東京専門学校(現、早稲田大学)教授を務めた。かたわらユニテリアン教会に所属し、キリスト教的人道主義の立場から社会・労働運動に貢献した。労働組合期成会に関係したあと、1898年片山潜、幸徳秋水らと社会主義研究会を組織し、1900年社会主義協会に発展させると、その会長となり翌年の社会民主党の結成にも尽力した。日露戦争には非戦論に同調して週刊《平民新聞》を援助したが、幸徳や堺利彦らとは立場を異にした。05年キリスト教社会主義の啓蒙のために石川三四郎らと《新紀元》を発刊したが、大逆事件以後は社会主義の実践活動から離れた。その後日本フェビアン協会会長を務めて社会民主主義の宣伝を行い、労働農民党、社会民衆党の結成にかかわり、32-40年社会大衆党の委員長に就任した。第2次世界大戦後は社会党の顧問ともなった。この間、代議士当選4回、東京市会議員にも選ばれた。以上の社会運動とは別に早大野球部を創立し、早慶戦の端緒をつくり、また嘉納治五郎らと大日本体育協会を創設(1912)、戦後は日本学生野球協会会長も務めるなど近代スポーツ導入に役割を果たした。熱心な産児制限論者で廃娼運動にも永年携わった。著書に《社会問題解釈法》(1901)、《土地国有論》(1914)など。[橋本 哲哉]『世界大百科事典』(平凡社)より引用。

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