このページの本文へ移動
ページの先頭です
以下、ナビゲーションになります
以下、本文になります

2020年度 壁面の展示

肖像画「芦田慶治」(有賀鉄太郎 筆)

肖像画「芦田慶治」(有賀鉄太郎 筆)
芦田慶治
一八六七年(慶三)十月二十三日生
一九三六年(昭十一)八月十八日永眠

 丹波鴨内村で誕生された先生は幼少時京都に移り、中学卒業後鹿児島、神戸、大阪と移り住み、志を立て自立せんとするうち求道して、一八八九年(明二十二)四月二十二日大阪で受洗、献身の決意を固めて関西学院神学部に入学された。病を得て数年間休学したが一八九七(明三十)年卒業して翌年留学の為渡米。バンダビルト、エール両大学で研鑽を積むこと五年、帰国して母校関西学院神学部で教鞭をとることになった。
 一九〇九(明四十二)年同志社は先生を招き、神学教育の担い手として迎えた。先生は改めてハーバード大学に留学、帰朝して伝道者養成の為心血を注がれた。新約学、組織神学を講じ、殊に晩年はバルト神学に傾き、感動をもってロマ書の講義をされた。病弱であったにも抱らず神学科主任、専門学校神学部主任、神学部長、文学部長等の要職にも着き、同志社の為に一切を捧げられた。直接教会の伝道活動には加わらなかったが、芯のある伝道者を育てる重い責任を果たされた。一九三二(昭七)年三月、病弱と老齢の為二十七年間の教授生活から引退されたが、学究は続け、日本でのバルト神学の黎明期に、弟子原田信夫と共にその研究と著述に励まされた。
 一九三六(昭十一)年八月十八日召された。六十九歳。

(天上之友 第三編(1988), 基督教世界社, p.18)

肖像画「魚木忠一」(長尾己 筆)

肖像画「魚木忠一」(長尾己 筆)
魚木忠一
一八九二年(明二十五)七月三十一日生
一九五四年(二十九)十二月十日永眠

 松山市で誕生、実家は石版印刷所で、先生は家業を助けるのに必要な書道のれんしゅうを乍ら石版印刷の業に励まれた。松山夜学校の存在を知り二十歳で入学、働き乍ら学び、西村清雄の影響を受けて求道、松山教会で受洗された。一九一七年(大六)年家業を投げうって同志社神学部に入学、一九二二(大十一)年卒業、留学、ユニオン神学校で四年間学ぶ。更に渡欧してマールブルグ大学に学び、一九二七(昭二)年帰国して母校同志社の教授となられた。近世基督史及び教理史を講じて伝道者養成の為に全生涯をささげた。
 一九四一(昭十六)年十月五日按手礼を領し、神学生に対する牧会者としての立場を明確にされ献身者の座に自らを置かれた。基督教体得の民族的類型を追求しゲルマン類型の代表としてカルヴァンを研究、之を纏めて「基督教精神史研究」を発表、一九四九(昭二十四)年文学博士号を得られた。神学部が一つの別れ目に立った時代に神学部長の任に就き、心労や過労の為か倒れて一九五四(昭二十九)年十二月十日永眠された。六十二歳。富森京次先生の葬儀でその略歴を読まれて三ヵ月後であった。かつて楷書で書いた文字を一定の枠に当てはめ几帳面に仕上げる石版印刷を業とされた先生は生涯その几帳面さをもって人々を教え導かれた。

(天上之友 第三編(1988), 基督教世界社, p.119)

旧約聖書一覧表(仮)

旧約聖書一覧表(仮)
神学館について
神学館2階の展示について
神学館礼拝堂
空から見た神学館
クラーク記念館(旧神学館)
神学部研究室図書利用規程
情報環境